痛い。

 頭を乱打するような、この痛み。

 怖い……怖い。

 逃げようと、立ち上がろうとした手足が萎える。

 力が入らない。

 恐怖に竦んだのか。

 いや……それだけでは無い。

 あの頭への一撃。

 あの一撃が、彼から手足の自由を奪った。

 その認識は、彼にさらなる絶望を呼んだ。

 恐怖なら克服できる……だが、傷はそうはいかない。

 あの式に施していたような、傷を再生する術は当然心得ているが、これだけの巨体を治すには相応の時がどうしても必要となる。

 何れは癒す事も叶うだろう……だが、その時が与えられていない事を、彼は知っていた。

 逃げないと。

 あいつらが……式姫が来る。

 私を殺しに。

 それは、その身の核をなす、陰陽師の力だったのか、それとも別の何かか。

 彼は、その身に迫る、恐るべき力の存在を知覚していた。

 式姫。

 たった一人で、相討ちとはいえ、この巨獣を屠った強大無比な力。

 恐ろしい。

 深く巨大な怒りを胸にして、その大いなる力が、徐々に迫る。

 何とかしないと……何とか。

 そう思い、ぐるりを見渡す視界がぼやけ、暗くなっていく。

 

 暗い、暗いよ……明かりを……。

 そう呻きながら、真昼の空の下で死んでいった、仲間の足軽たちの姿を思い出す。

 

 何とかしないと。

 だが、手足が効かない今、圧倒的な腕力や巨体も、陸に打ち上げられた鯨のそれと大差ない。

 交戦も逃げる事も出来ない。

 このまま、なぶり殺しを待つのか。

 

 否……否!

 “私”は、死にたくない!

 

 本人は気が付いていなかったが、あの圧倒的な肉体の力を一撃で失い、無力感に怯え、竦んだ事が、妖の力に飲まれていた彼に、人だった頃の意識と心を取り戻させていた。

 何か。

 必死に己の生を掴もうと、鵺の中に封じられた陰陽師の魂は足掻いた。

 それは、彼の生そのものだったのかも知れない。

 乱の果てに没落した貴族の末裔として、何とか身を立てようと、陰陽の法を学んだ事も。

 だが、苦心して修めた術が、立身の役に立たぬと知ったあの時も。

 師の命を奪った、あの時も。

 昏い野心が芽生えたその時も。

 彼は、彼の道を遮ろうとする何かに抗って生きて来た。

 自分はもっと、上にあるべき存在なのだ。

 ここで終わるなど……あり得ない。

 この動かなくなった巨獣の中に閉じ込められた、己の魂を生かす方途を求め。

 彼は、その何かを求めた。

 何でもいい……何か。

 巡らせる視界に映るのは、不気味な真紅の世界。

 血が目に入ったのか、そもそも目が正常に働いていないのか。

 そんな世界の中、四人の式姫の歪んだ像を映し出す。

 何れ彼の返り血に染まる事を暗示するような、真紅に染まった姿で。

 血。

 

 嗚呼……あるぞ。

 素晴らしい。

 途方もない力は、私の中にあるではないか。

 陰陽師はその力に、自分に残る意識の力のありったけを向けた。

 彼の隷下に入る事に対して抵抗する力を感じる、だが彼はそれにさらなる意識の力を向けた。

 ねじ伏せてやる。

 私が生きるために……お前の力を寄越せ。

 

 

「何をする気やぁ、私のかわいい玩具にィ」 

 藻は、ぎりりと奥歯を噛んだ。

 あの陰陽師……まだ人としての意識を保って居るのかぇ。

 魂なき作り物は脆い……まして、殺生石四つの力を束ね、偽りの妖を作り、それを動かすには、何らかの魂をその器に容れる必要が有った。

 人が、堅固な何かを作るために、人柱を捧げるように。

 あの陰陽師は、藻の作る、玩具の、大事な歯車の一つ。

 逆に言えば、それだけの物だった。

 人の魂など、圧倒的な殺生石の力に飲まれ、その知識と力だけを残した、破壊と殺戮の衝動の塊に成り下がるだけ。

 その筈だったのに。

「人風情がァ……」

 あの庭の主も。

 あの陰陽師も。

 塵芥に等しい人が、何故妾達大妖や、神々に等しい大樹の力をその身に宿しながら、尚、己を保てるというのか。

 大人しく妾たちの手先として、玩具のように相争い、壊れて行けばいい物を。

「百に遠く届かぬ命に何をしがみつく」

 そう呟く、藻の口先が人のそれではなく、狐のように尖っていた。

 彼女の玩具が、奪われた。

「気に入らん……ナァ」

 地にうずくまり、今は時折傷の痛みに呻くだけになった巨獣を、四人が遠巻きに囲んだ。

「どうにも気に食わないねぇ」

「……ええ」

 紅葉の呟きに、童子切が言葉少なに答える。

 何が、とは言えない。

 だが、何かおかしい。

 そんな、歴戦の戦士がだけが感じる、嫌な空気。

 それが、皆を、この巨獣に止めを刺すために殺到させる事を躊躇わせていた。

「とはいえ、時を与えると、傷を再生されかねません」

 天羽々斬が、あの領主や狐顔の式との戦いを思い出しながら顔をしかめる。

 開いた胸を瞬時に閉ざし、へし折った足を走りながら再生させた、あの恐るべき力が、こいつにも可能な事なのかは、陰陽師ならぬ身には判断の付きかねるところではあるが。

「あの傷が治っちまうってかい?」

 あの傷の深さは、いかに妖と言えど、死に至る深手と見ていたが、治癒する可能性があるとなると、放置もしておけない。

「あくまで可能性ですが」

「そいつは旨く無いね」

 そうぼやいて、紅葉は羅刹と鵺の交戦の煽りを喰ったと思しき、傍らの倒木に斧を入れた。

「遠間から倒す?」

「あんまり、好きなやり方じゃないけどね」

 簡単に枝を払って、先を尖らせる。

 あたしの斧は、木こり用じゃ無いんだけどな。

 はぁ、とらしくないため息を付く紅葉に、鈴鹿が苦笑気味に笑いかけた。

「安全策を取るのは悪い話じゃないわ」

「先ず、そういう発想自体が嫌なんだよ、あたしゃ」

「あらあら、それじゃなんでかしら?」

 からかい気味の鈴鹿の言葉に顔をしかめて、紅葉は尖らせた丸太を担ぎ上げて、鵺に向けた。

「負け戦はもっと嫌だってだけさ」

 わっしょいという掛け声一つ。

 人の城塞を瞬時に半壊させた恐るべき武器が、鵺に向かって唸りを上げる。

 その真っ直ぐに飛来する巨大な矢に向かい、鵺から光が一筋走った。

 青白い、本来は天から降り下る光……。

 それを知覚する以前に、皆の体が動き、それを回避できたのは、距離を取って、なおかつ予兆を感じていたためか。

 光の直撃を受けて、丸太が爆ぜる。

 更に、丸太を貫いて、紅葉が最前まで立っていたその場所を光が走り、後ろの林を薙ぎ払った。

 空気自体が焦げるような特有の匂いと、光が走った少し後に轟音が続く。

 

「神鳴り……」

 

 

(おお、使える……意のままに術が使えるぞ)

 もし彼自身の人の体があったのなら、陰陽師は喜悦と驚嘆を綯い交ぜにした声を発していただろう。

 この妖の体を動かす四つの殺生石の力。

 一つでも絶大な力を示す、その力を四つ相乗させた妖。

 その力を、全て彼の支配下に収める事が出来た。

 体は深手の為に動かせないが、術は何とかなる。

 何とかなる?

 それどころでは無い、先ほど放った神鳴りは、彼が想像も出来なかったほどの力。

 これならば……。

(ああ、私の術に、この力さえあれば)

 式姫はおろか、自分は神々に挑む事すら叶うだろう。

 

 この血の力を彼に与えた大妖狐自身が、神々の前に敗れ去っている時点で、それは彼の錯覚でしかない。

 ないが、そんな錯覚をもたらすのも不思議では無い程の力であったのも、また事実。

 

 もう貴様らの力など要らぬ。

 殺してやるぞ、式姫ども。

 貴様らも、私を弄んだ藻も殺し。

 私が、この世に覇を唱える。

 こんな、力だけを恃みとする人面獣心の畜生どもが跋扈する世の中だ……実力だけが大事と言うなら、人の魂宿した妖が君臨したとて、何の悪があろうかよ。

 血塗れの顔で鵺は、いや、かつて人だった物はにたりと笑った。

「やはり……」

 こいつはまだ、その危険を些かも減じていなかった。

 童子切が手を添えた刀の革巻の束が、彼女の苛立ちを代弁するかのように、ぎちりと軋む。

「術まで操りやがるか、嫌な予感だけは、良く当たるねぇ、ったく!」

 紅葉達の視線の先で、黒い煙がその巨体を再度包んでいく。

「どういう心算です……動けぬ身で目くらましなど」

 訝しげに呟いた天羽々斬の眼前で、鵺の体が煙に包まれていく、それと同時に、その疑問への答えもまた、彼女たちに示された。

 体自体が、その煙と変じたかのように、その巨体がふわりと浮き上がる。

「あの図体が飛ぶですって、何の冗談よ」

「冗談じゃ済みませんよ、あいつに空に行かれたら……」

 天羽々斬の一言に、一同の顔が僅かに強張る。

 自分たちの武器は刀と斧。

 あいつの武器は……。

「最悪ね」

 静かだが吐き捨てるような一言。

「鈴鹿?」

 紅葉が傍らを見た時、既にそこには残り香しか残っていなかった。

 戦陣にある身だが、尽くす相手の為に、常に女性の嗜みを忘れない彼女の服に焚き染められた白檀の香。

「ちょっと待て、無茶だ!」

「空に逃がしたら、無茶も出来ないでしょ」

 迫る鈴鹿に、恐るべき威力を秘めた雷光が迅る。

「来ると判っていれば」

 だが、彼女はそれを、有ろうことか、更に速度を上げ、斜め前に踏み込んで回避した。

 回避、いや。

 それは、瞬歩と呼ばれる、特殊な歩法。

 術の類では無い、踏み込みの緩急や、相手の死角を利用して、一瞬で相手の間合いを侵略する体術。

 斧という間合いの狭い武器の破壊力を最大限に生かす、必殺の一手。

 あれは自然の雷では無い、彼女を狙う、意思ある者が操る“武器”ならば、その狙いを幻惑する法はある。

 次の鈴鹿の一歩が、浮き上がった鵺の直下の死角を取る。

 地響きを伴い踏み込んだ、鈴鹿の足が大地にめり込む。

「鬼神力……招」

 ひゅっと鳴ったのは、彼女の呼気だったのか、それともその無双の剛力が振るった斧が、空気を両断した音か。

 踏み込みと同時に放たれた凄絶な一撃が、鈴鹿の手に、存分に肉に食い込み、骨を断ち割った感触を返す。

 斧を振り切った、それに続いてずしりと落ちたは、奴の前脚か。

 痛撃は、だが同時に、死角に入った鈴鹿の位置を、鵺に知らせる事となった。

 渾身の力を込めて斧を振り切り、直ぐには動きだせない鈴鹿を、三方から雷が襲う。

「鈴鹿!」

 紅葉の悲鳴のような叫びの中、血を振りまきながら黒煙が空に舞いあがる。

 後に、地に伏して動かなくなった鈴鹿御前を残して。


 
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